ギャーナ・ヨーガ

サンプルページ:ヨーガの醍醐味「瞑想」
*師の導きとヨーガの学びによって進めてきた瞑想の歩み、実践内容について。前・後編からなる前編をここに掲載します。

ヨーガダンダ

私は誰か――。このシンプルな問いかけを探求し、本当の私を悟ることがギャーナ・ヨーガだといわれています。この「私は誰か」という問いかけは、誰もが無意識的に行なっているものではないでしょうか。この世のいろいろなものに私を投影し、そこで打撃を受けたら、また違うものに私を投影してみる。「私は学生」、「私はダンサー」、「私はニューヨーカー」……などなど、自分も取っ替え引っ替えいろいろなものに「私」を投影してきました。その私像は個々人がもつ理想が反映されているのですが、理想と現実は一致しないことがしばしばです。というより、完全に一致することはありません。心が描き出す理想像も、現実の世界も、常に変化しているからです。自分が立っている足場も、つかもうとしている物も、すべてが不安定な中で人生を送っていかなければならないのです。そんな雲をつかむような「私」の追求も、経験を重ねていく中で、粗大なものから微細なものへ、外側から内側へ、追求から探求へと変化していきます。そんな時にヨーガとの縁が生まれるのかもしれません。「私」だと思っていたものが崩れ去る。何度も何度も繰り返していくうちに、「どれが本当の私だろう?」、「私はどこにいるのだろう?」、「私は誰か?」といった問いかけに行き着くのでしょう。ですから、人はそのような問いかけが意識の上にのぼってくる以前から、「私」というものを追求しているように見えます。もちろん初めから、この世界の何かに「私」を投影することなく、「本当の私」を探求している人もいるかもしれませんが、大抵は無意識的に「本当の私」を求めているのだと思います。

本当の自分というのは何なのか、誰なのか――。誰もが私という言葉を使い、他人ではない私を意識はしているけれども、果たして、その私がどういうものかということを誰も説明できない。本当に不思議な現象があります。だからこそ、私を知らなければいけない。私が、私を知らなければいけない。
――シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

誰もが人と会話をする時に、「私はこう思う」、「私は~だ」というふうに、「私」を付けます。そして、いつも「私」を大事に思い、「私」が幸福になることを願っています。しかし、「私」が何なのか、はっきりと分かってはいないのです。吉祥にも、真正なヨーガに出会い、グルの下に辿り着いたならば、グルの教えによって、何が「本当の私」なのかということが知らされます。そしてほとんどの人が疑いもなく、心を「私」だと思い込んできたので、その「私」の実体を聞いた時には、衝撃を受けるのです。

通常私たちが自分をこの体とか、あるいは心だとかいうものに紛れ込ませているならば、それは絶えず不完全で動揺した状態に違いない。そんな自分を当てにすることは難しく、また信じることも難しい。でもそれが本当の自分なのかと言えばそうではない。そうではなく、それらをすべて知っている、あるいはただ見ている意識。これは心ではなく、心を見ている意識。心は常に変化しているけれども、この意識は変化することがない。また何ものによっても動揺することもない。常に変わらず、どこからか来たこともなく、どこかに行くこともない。それは生まれたこともなく、死ぬこともない。常にそれだけが在ったし、今も在るし、これからも在る。それだけが不滅の存在として在る。それが本当の自己、アートマンです。
――シュリー・マハーヨーギー・パラマハンサ

この「本当の自己」を実現し、体現したグルの傍に座ると、その圧倒的な存在の影響を受けて、心の波は静まります。永遠の時の流れの中で、この「本当の自分」こそが、それのみが人生で求めるべき価値のあるものだと気付かされます。そうして求道者は意識的に「私は誰か」という探求を始めるのです。すると求道者の心は、グルのお導きによって賢くなり、すぐに崩れ去るような「私」ではなく、確固とした存在――「本当の私」を求めていくようになります。

しかし、いざ探求しようと思って瞑想に座ってみると、いろんな心の思いが浮かんできて、一向に静かになることはありません。幾たびもの輪廻転生の中で、心は「私」でないものを「私」だと思ってきました。膨大な量の経験を通じて心が受けた印象が、心の潜在下に蓄積され、「またあんなことがしたい」とか、「もうこんな経験は嫌だ」というような思いの流れをつくり出し、次から次へと心を活動させていきます。このように心が動き回る状態では、「本当の私」を探し出すことはできません。まずは心に学習をしてもらう必要があります。心は外側の儚い世界に「私」の存在を託そうとしているので、それが「本当の私」なのか、そこに真実があるのか見極めなければなりません。心が間違った認識をしていると、最終的には心そのものが頭を打って苦しむ結果を迎えます。真実の教えによって心を教育し、間違った思いや物事の見方があるならば、改めなければなりません。識別といわれるものです。ヨギは、私に無明の四つの項目を心にあてがって識別をするように教えられました。

・永遠でないものに永遠を見る
・浄らかでないものに浄らかを見る
・幸福でないものに幸福を見る
・私でないものに私を見る

今思い返してみると、識別が成功する時は、心がその問題について考えようとしなくても常に目の前に立ちはだかっている状態、つまり心が真剣にその問題と向き合っている時でした。これまで自分自身の心が信じ込んできたものを取るか、それとも真理の教えを取るのか――、この選択を今この瞬間にしなければ、この先、生きていくことができないというような瀬戸際に立たされた時、真理の智慧によって心がそっくり入れ替わるような識別が行なわれました。そして、それほどまでに心が追い込まれることはめったにないので、大概は知的に真理の教えに照らし合わせて考えてみて、「そうだな」、「そうだな」と納得するだけに終わりました。しかし、その問題は心の表面に浮かび上がってきていないだけで、心の底の方に種の状態で眠っているのです。それほど切迫していない問題は、無明の四つの項目に当てはめて考えてみて、知的ではありますが、心が納得すると、その問題はいったんは消えていきます。そして心が何の問題もなく静かな状態になると、自然と四番目の項目に関連して「私は誰か」という問いかけが生まれてきました。しかし、それはあくまでも知的な問いかけで、「私は誰か」と言葉を繰り返すだけの粗大な探求に感じました。ただ言葉を使いながら頭の中で考えている「私」に対してメスを入れていっても、一向に先に進んでいる感覚がありませんでした。このことに関して、ヨギは次のように答えられました。

「集中段階においては、言葉に頼らざるを得ません。つまり心が何かを集中する時にすぐにそれは言葉となって現れてしまうから。だからこそその探求をしていかないといけないし、探求の中でその粗大な私という概念が次第に抽象的な微妙な意識に取って代わるようになってくる。知的に『無明』というものを理解して除去していこうというのは粗大な働きです。微妙なサンスカーラとかヴァーサナーとかいうものと絡み合ってその『無明』というものが成立しているから、もっと根が深いというふうに理解できる。だからこそ瞑想とか探求とかいうものが不可欠になってくるし、その過程の中で次第にその粗大な部分が取り除かれていって、より微妙な境地みたいなものが出てきます。そうすれば『私』というものに付きまとっていた粗大なイメージというものも変化してくると思う」

このような実践を繰り返して、粗削りではありますが、識別によって心の中の整理整頓をしていきました。そして知的に納得したものは時間が経つとまた浮上してきたりして、ちゃんと解決されていないのだなということも分かっていました。そんな中で、ヨギが時折サットサンガで、「付加条件」という言葉を出されるのに、関心をもちました。心が依存する対象は何らかの条件によって成り立っており、その条件を見抜くことが識別を成功させる鍵だということでした。

ある夜、私は夢を見て、はっとして目を覚ましました。私が執着している対象が、夢という形になって現れたのです。私は瞑想の姿勢で座り、そのヴィジョンに対して識別を試みました。心の潜在下に種の状態で眠っていたものが、今は心の表面に形となって現れて、つかむことができます。いったいどんな条件がこのヴィジョンをつくり出しているのか、私の心はどんな条件に依存しているのかをじっくりと見ていきました。この時は、心がギリギリの状態に追い込まれるというような切迫感はなく、むしろ非常に冷静に分析をしているような状態でした。医者が体を解剖するように、心と対象の間にある一個一個の条件を見つけていきました。そして、「あっ、これが最後の条件だ」というものが分かった瞬間、その対象がジュッという音を立てて、焼けました。瞑想の中ですが、本当にジュッという音がして、その対象は一瞬にして燃えてなくなりました。「おかしいぞ、本当になくなったのかな?」と思って、もう一度記憶の中からその対象を引っ張り出してみました。すると、目の前に現れた瞬間、またジュッという音を立てて焼けました。この浮かび上がらせて焼くということを何回も繰り返していくうちに、その対象は自分の何百キロメートルも先の方でしか思い浮かばなくなりました。そしてとうとう何にもない宇宙空間のような、ブラックホールのような、空のような状態に広がっていきました。それは無の状態だったので、この先どこに集中して、どう進めていけばいいかも分かりませんでした。

数日後、私はサットサンガでこの瞑想の体験をヨギにお伝えし、助言を求めました。

「それを条件付けていた、今のは対象の問題。その主体の方を、一切の無条件の自存状態にもっていくこと」

「ということは、直接的にアスミターに入り込むことになるんですか」

「ええ、いわゆるアスミターというのは、『我想』と訳されてますでしょう。それは我、私という意識、あるいは思いのことです。微妙な対象として、思いという意識性を伴った想念の、『私』という想念がそこにまだあるということを示しているわけ。そういう微妙な心と一体になっているアスミターという、それをも剥ぎ落としてしまう識別が、それから進められていくものです」

「これからは何か問題が起こった時はチャンスで、それを手掛かりにアスミターに進めていくべきですか」

「そうです。また問題が起こってからという消極的なものではなくって、もっと能動的に、積極的に、それは『私は誰か』という問いかけをもって進めていくのがいい」

確かに、何もない空間というような瞑想の状態になっても、そこに「私」はいました。その主体である「私」に意識を向け、集中していくこと、これが本当の意味での「私は誰か」という問いかけであるのだと思いました。この問いかけにおいては言葉は使いません。言葉を発するのは心ですし、言葉を使えば使うほど、心は動いていきます。「私は誰か」と言葉で問いかけて、グルグルと回っていたのは、そういう理由だったのでしょう。しかし、そのような微妙な「私」という意識に集中をしていくことなど、初めからは難しいことです。だからヨギは、識別によって心の整理整頓をさせ、準備をさせていたのだなと気付きました。さぁ、ここからがギャーナ・ヨーガの醍醐味の始まりです。