タントラ

第1回 タントラとは

問答の形でシュリー・マハーヨーギーの教えを掲載します。太字斜体はヨーガダンダによる執筆になります。

タントラ

MYMのヨーガに出会って、ほとんどの方が最初に実践として取り組むのがアーサナではないでしょうか。アーサナの名前や形、その意味について教えられる中で、不思議に感じたことはありませんか。アーサナは様々な生き物の形を作りますが、その中で得られる効能は、その生き物が象徴することやその特質と一致しています。更にはアーサナの中で、体の中に太陽や月が巡っていることを知ることができるともいわれています。アーサナは単に肉体を操るトレーニングではなく、その奥には深遠な世界が広がっており、私たちが知らない大宇宙と小宇宙の神秘的な繋がりがあるのでしょう。

――大宇宙を象徴したものが小宇宙の中にあるというのはなぜなのでしょうか。

これは古い時代からの人間の直観力によって伝えられてきたものです。特にインドにおいてそれが発達しました。この世界は表象ですね――表れているもの、これを表象といいます。これは外側の、いわば表側の見える形態のことです。瞑想においては、その表象からその裏に隠れているところの象徴を感じ取ることができる。

そうすると、この小宇宙といわれる人体について瞑想を深めていけば、へその辺りというものは他の部位に比べて常に熱が高い。当然、これは食べ物を消化するという機能を持っているわけです。その消化は火、または熱によって行なわれます。それは、この世界においても調理をする時に火が必要になり、熱を加えることが必要なことと同じですね。

それを大宇宙に求めれば、太陽が火、または熱の象徴を伴っているということになる。そして朝がきて夜になり、そしてまた朝がくる。この夜の時間の中で朝方気付くのは草花の露ですね。昼間は太陽の熱に当てられて乾いているけれども、朝方は露が降りたり、または水滴が付いたりということを目の当たりにします。これは、夜の間に月が甘露を落としてくれたのだというふうに見なされる。それによって一日一日の循環がなされていく。つまり持続、維持というものがなされていく。それも、この身体の中にきっとあるに違いない。つまり、月がこの身体の中にも巡っている、そうして毎日この中において草花を甦(よみがえ)らせるように、甘露を滴(したた)り落としている。

そしてもちろん、この人間にとっては背骨という中心の屋台骨(やたいぼね)があるように、この大宇宙においても、スカンバといわれていますけれど、支柱という中心の柱というものがある。それによってこの宇宙は分解せずに形を保っている、身体が形を保つことができているように。

そして地上には優れた霊場、巡礼する聖地があるように、この身体の中にも多くの霊場がある。ピータといいますが、それらはいわばヨーガにおける瞑想の象徴的な意味を直観する者によって伝えられてきたもの。これは何千年にも渡るヨーギーたちの系譜の中で、実証されてきたことなのです。

――ヨーガ行者は大宇宙と小宇宙が同じ原理で展開しているということを瞑想の中で知るのですか。

そうです。全く同一の原理です。そしてまた同一の働きです。だからこそ、この小宇宙と大宇宙は同じであるという大胆な見解が堂々と言えるわけですよね。

――「アーサナは生き物の数だけある」と言われますが、それも同じように大宇宙と小宇宙の関わりが見られるのでしょうか。

見られます。まぁこういった内容というのは、『ヨーガ・スートラ』の教える世界ではなくて、むしろタントラと俗に言われている体系の内容なんです。また、アーサナが属しているハタ・ヨーガはタントラに属していますから、ハタ・ヨーガにおいてもそのような内的な行ない方というのは付き纏っています。決して外見的な、肉体をいろんな形に作って柔軟にするとかそんな問題ではないの。もっと象徴的な意味合いが実は強いんです。

タントラ的な瞑想というのは、やはりそれもタイプがありますので、誰もにとって必然というわけでもないし、そういう象徴的な神秘に、神秘的な謎解きに興味のある人は、そういう方法もあります。

――それはこの宇宙の中の色々な表象の背後にある原理とかを解明していくという作業で、そこにおいて最終的な悟りまで進む、そういう道があるというふうに理解すればよろしいでしょうか。

はい。それはこのユニヴァースという宇宙を理解していきながら、根源のシヴァ、あるいはシャクティというものに到達する道です。もう一つ付け加えると、タントラにおいては必ずバクティというものは必然です。シヴァやカーリー、クリシュナもそうでしょう、そういう神と言われる存在がブラフマンの形を取っているというふうに言える。

――それは、シュリー・マハーヨーギーやブッダが、心や世界の仕組み、因果の法則とかを解き明かしていった、それとはまた違うアプローチになるんですね。

そうですね。どちらかといえば現代語で言うと科学ですよね、宇宙物理学のような。それと心理学との象徴的な解決法というか。他に似たタイプとしては、詩人や絵描きは、そういう象徴的な仲介を得ながら、神秘の彼方に思いを馳せていったというふうにも言えると思います。

そう考えると、インドの古い宗教形態においてはヴェーダというものがあって、そのヴェーダは詩で綴(つづ)られているんですよね。あの詩はどこから生まれたかというと、やはり直観によって生まれたというふうにいわれています。
だから、タントラは最も古いところから復活してきた、あるいはもう一度再構築された教えというふうに言えますね。

月

『ヨーガ・スートラ』には「アーサナは堅固で快適である」と説かれています。アーサナは専ら健康で強い体を作り、瞑想に座ることを目的としていました。時代が下りハタ・ヨーガが流行すると、アーサナは肉体を扱うだけではなく、より瞑想的なアプローチに変化します。その神秘的なハタ・ヨーガの世界はタントラがベースになっているということですね。しかしタントラという言葉自体、私たちにとってはなかなか聞き慣れないものです。タントラとはいったいどういうものなのでしょうか。

――タントラという言葉の意味するところを教えていただけますか。

まず語源的なところから言うと、「タン」と「トラ」で、それは「知識を拡大するもの」という語源からきているといわれています。
この言葉が聖典に付けられ始めたのは、おそらく紀元後のことだと思います。いちばん最初にどの聖典が当たるのかということは、今は分かりませんが、おそらく2、3世紀、まぁもう少し下っても一桁の世紀の中で現れてきたと思われます。というのは、それ以前の聖典はほとんどがスートラという名称が付けられている。『ヨーガ・スートラ』ももちろんそうですし、『ブラフマ・スートラ』、数多くの何々スートラというのが見つけられます。更に、それよりも古いものになればウパニシャッドという名称もあります。これは一時的な一時代を特徴付けているものというわけではなくて、例えば、今もなおウパニシャッドと名付けられたり、スートラが付く聖典が作られたりしていることから見ても、一時的現象ではなくて、その聖典の構成とか内容とかいうものを特徴付けるものに匹敵する名称が付いているのではないかと思います。

スートラは縦糸という意味ですから――縦糸は一本の糸ですね――『ヨーガ・スートラ』は200弱のスートラがありますけれども、一つ一つのスートラが完全な文章の体(てい)を成していなくて、第1スートラから、まるで最後まで一本の糸が繋がっているように読んでいくことができる。これは一つには読誦(どくじゅ)という、記憶し、それを唱えていくという、より記憶を確実なものにしていくための聖典の編み方の工夫でもあっただろうし、そうするとそれらはおそらく文字として学んでいくよりは、むしろ口から耳に伝わり、それをまた口で唱えて記憶していくという手段を中心としていた時代から、伝統的に伝わってきた手法であったと思われます。

タントラというのはその後に生まれた形態であって、いわばスートラが中心というところに向かってより鮮烈化していく、余分なものを剥ぎ取ってどんどん中心に向かっていくという内容を主(おも)にしているのに比べると、タントラにおいてはもっとより広くの知識を拡大して、内容にしている。だから別の解釈ではタントラは織物という意味もあります。織物は、縦糸と横糸を交差することによって大きな平面を作るものです。ちょうどそのように、それまでの伝統的な知識全てをまるで百科事典のように網羅して体系付けている、集大成をしている、そんな内容に特徴付けられます。そういう中から、いろんなスートラが割愛してきたヴェーダ時代の呪術的な内容とか、あるいは神話伝説なども取り入れられ、それらも見事に調和するような体系を作り出しています。時代的に見れば、それまではバラモン中心の宗教がヒンドゥー教として大きく展開していく、そういう時代にマッチしてというか、ちょうどその形成と時を同じくして、タントラも発達してきたように見られますね。

すると、それ以前のいわばスートラにおける正統派的なものだけではなく、異端とされていた修行や伝説なども、もう一度取り上げられて、新たな解釈がそこに施されることになりました。それは多分に正統派とされるバラモン以外の土着の信仰形態であったり、修行内容であったりしたことも多いです。そういう中から、それまでのブラフマン、アートマンという抽象的な根本原理に加えて、人格神がより大きくクローズアップされてきます。シヴァ派とか、もちろん『バガヴァッド・ギーター』におけるような、その発展系であるバーガヴァタ派という、クリシュナ派、ヴィシュヌ派、そしてシャクティ派という女神信仰ですね、これらがいわばそれ以前のブラフマンやアートマンに一致させられるように解釈付けられます。

古典ウパニシャッドにも人格神的な色彩を帯びたものもあるんですけれども、後世のようにはまだ色濃くはありません。例えば、『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』という、あれはシヴァ派というか、シヴァをイメージさせるし、またそこに出てくるマーヤーという言葉も否定的な意味合いではなく、シャクティとしてのむしろ肯定的な意味で用いられています。そういうふうに、人格神信仰が非常に大きくなっていくのも、またタントラの特徴でもあります。

もう一つの特徴として分かりやすく言うと、ブッダや『ヨーガ・スートラ』の思想というのは、ニルヴァーナ、あるいはニルビージャ・サマーディというように、チッタ・ヴリッティ・ニローダ、心の働きを止滅、もしくは完全に制御してしまうことというふうに、ゼロに向かわせるという印象があります。タントラでももちろん、カルマや煩悩、無知というものを認めていますから、それらをなくすことは当然なんですけれども、もう一方ではこの世界の顕れというものをシャクティの顕現、つまり肯定的に捉えることによって、ゼロに帰するのではなくて、それを無限数に拡大することによって、一切全てを神聖化する、そういうところが特徴として見受けられます。かつては忌み嫌っていたものも、忌み嫌うということは相対的な二元性を認めることになるから、そこでは黄金や土塊(つちくれ)を同一視するというように差別をなくしてしまう、無差別化することによって、全てを一つの神聖なものとして、神聖な顕れとして認めようという、そういうところがタントラの特徴です。そういう総合的なというか、拡大した体系の中にはいろんなものも混じり込んできて、全てのタントラが成功したとは言えない部分もありますけれど、行き過ぎたものも多々あったそうですけれど。それはともかくとして、先ほど言った点に特徴付けられるということだけを理解すればいいと思います。

その総合体系の中には哲学に留まらず、宇宙論的な内容も、(『パラマハンサ』表紙の「サハスラーラ・チャクラ」を示されて)そしてこのチャクラに代表されるような超生理学的な部分も、いろんなものが統合されて大きな体系を作っています。またヒンドゥータントラとか仏教タントラというふうに言い分けて、やや異なった内容もありますので、ちょっとややこしいところもあるんですけれど、今言ったのはヒンドゥータントラの部分です。仏教タントラは俗に密教というふうに訳されているもので、日本では空海が広めた真言密教がその代表の一つです。あとはチベットに展開した仏教。ヒンドゥータントラと仏教タントラは全く同一とは言えない部分があると思います。根本的な考え方は同じだと思うんですけれども、その表現的内容はかなり異なっています。

パラマハンサ72

私たちがよく知っているブッダや『ヨーガ・スートラ』の教えでは、心を完全に静止させゼロにしていくのに対して、タントラは一切を神聖化し、心を無限大に拡大していくというところが大きな違いですね。
師はハタ・ヨーガを極められただけではなく、サハスラーラ・チャクラの絵のような、タントラ的なアート作品やデザインなども多く残されています。そして師はタントラは得意分野だと言われます。日本でお生まれになった師は、何の情報もない中で全てをシャクティの顕れと見て神聖化するタントラを、どのように体得していかれたのでしょうか。

――シャクティ信仰について、シュリー・マハーヨーギーご自身がどのようにシャクティを捉えて実践されて、今ここに教えとしてあるのかをお聞かせください。

私も単にシャクティ信仰とかタントリズムとかいうものを聖典などの知識から学んだわけではなくて、経験からそれを知ったところがあります。その原点は10代の若い頃に遡るのだけれども、この世界と万物のあり方というのは何なのだろうと。端的に言えば、この宇宙がマーヤー(幻影)として消え失せるものならば、初めから展開する必要はないわけで、アートマンのみで、あるいはブラフマンだけであって、その至福を楽しめばいいわけだし。しかし現実にこの世界が展開しているということはどういう意味をもっているのかということが気に掛かったことがあります。

そこで単純に直観したことは、この世界もアートマンの顕れであって至福であるべきだということ。歓びの中で全ての活動があり、この世での存在もあるに違いない。そう結論付けると矛盾はないわけですけれども、現実的にはこの世には様々な苦しみや悩みが見つけられるし、全てがその歓びの姿を呈してはいない。いや、むしろ100パーセント近くが地獄のような様相を見せている。これを識別していった時に、そこにカルマや煩悩や無知というものが見つけられ、これらによって本来の歓びや至福が掻き消されてしまっている。しかしそれをなくしてしまえば、本来のブラフマンの、アートマンの、あるいは神の歓びがあるに違いない。そう思えばこの自然の働きの一つ一つが、風も水の流れも、空気も雨も、全てが神の顕れに感じられてくる。そう感じると物凄くそれはセクシーで、たまらなく愛おしいものに思えてくる。本当にこの体が吸って吐く、この一つ一つの呼吸にすらも、そういったセクシーな歓びが付き纏っている。それは女神なんだなと。後に『ヨーガ・スートラ』やヴェーダーンタや他の聖典などを少し見ることができて、その哲学というものに触れた時に、女神はプラクリティと呼ばれ、時にはシャクティ、カーリー、マーヤー、様々な名前で呼ばれているけれども、要はその女神の存在がこの宇宙の始まりの象徴になっている。したがってこの出来上がった世界、万物というのは女神そのものの姿なんだなと――。

そしてタントラが教えるところは、この世界全てを神聖化せよ、この世界全ては神聖なるものなのだということ。そこには無知も煩悩もなく、ましてや苦悩もない、実に穢(けが)れなき神聖そのものなのだ、そのように見よというのがタントラの極め付きの教えなのです。それこそが、この世界のありのままの姿こそが、女神そのものなんだと。そしてその背後には一体化したアートマン、ブラフマンが常に在る。女神はその不動のアートマン、ブラフマンと自ら楽しむために、自らをこの世界や万物という姿に顕して遊んでいる。何年も瞑想して、10代の時に感じ取ったことです。これが私のシャクティ信仰です。

師はあらゆる事柄について瞑想をしてこられましたが、何の予備知識もなかったからこそ、その本質である純粋なエッセンスを掴み取られたのだと思います。それ故、師の教えは普遍的です。
師が10代の頃に感じ取られた、この世界は一なる存在が楽しむために展開し遊び戯れているという真理は、リーラーのことです。師は度々、このリーラーを私たちが目指すべき理想の境地として教えてこられました。次回はそのリーラーについて触れていきたいと思います。